説教 創世記章28~34節「神の山に備えあり」
- 神はあなたの人生の責任者 -
わたしたちは何かをする時必ず目標や目的を定めてしかそれをできないではないでしょうか。自分が何をしているか何を目がけているかわからない時、迷い悩みます。ただ、その日暮らしの小さな目標は過ぎてしまいます。一体自分は何のために毎日を生きているかを思うと、もっと大きな目的、人生を越える高いもの、時間を超えたもの、人生を意味づけるものを求めようとするのではないでしょうか。
聖書の中の「信仰の父」と呼ばれているアブラハムもそんな目的を目指して生きた人と言えます。アブラハムは幾つかの人生段階を歩みました。最初は父親についてハランという異国まで旅した時代です。これはまだ目標や目的が定まっていない時と言えます。その次は「あなたを祝福の源の民としよう」と語りかけられた神に従ってカナンまでやって来た時代。ここで目的が示されました。その後はっきりと、彼に「アブラハム、あなたの子から星の数ほどの国民が生まれる」と語る神から目的が与えられて生きていきます。とはいえこれにはいくら信仰深いアブラハムといえども老齢であった彼は半信半疑の気持ちを振り切ることはできなかったのではないでしょうか。妻サラの計略でアブラハムは側女ハガルに男子イシュマエルを産ませますが、所詮小賢(こざか)しい知恵ゆえなんとも醜いいざこざが身内に生じ後々彼を苦しめます。この場面にアブラハムがたとい信仰に生きようとしても俗的な人間としての狡猾さと弱さが否応なく表れているようです。それでもついに神の約束どおりサラとの間にアブラハムの子イサクが生まれます。二人は「笑い(イサク)」という喜ばしい名前を付けて、いよいよ神の約束の民の出発を祝ったのでした。
さあ神により後継者誕生の目標はかなったし、普通これでアブラハムの祝福の民としての人生は滞りなく進んでゆくことでしょう。世の常ならそうです。しかし聖書はここでアブラハムの人生に思いもよらない事態が生じたと描くのです。それは神がアブラハムを試みられたというのです。
「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」(2節)。
台無しではないでしょうか。神が目的としてくださった祝福の子を神ご自身が今になって犠牲にせよと言われるのでしょうか。何にも無くなってしまいます。あの約束は何だったのですか。最初、アブラハムはそう思ったでしょう。何が何でもと信じて神についてきた歩み、そして祝福の民とされる約束を半信半疑ながら苦しみつつ乗り越えて、いよいよ人生を歩めるという時、この逆境に突き落とされるとは。
でも聖書をよく読みましょう。アブラハムは黙々と準備をします。「献げ物」をするためです。それは4回も言われます。「献げ物」と。じつはここからアブラハムの人生は本当の目的が何かを知る段階に入るのです。アブラハムは悟りました。「わが子イサクこそわたしの宝だ。でもこの子を最も愛しすべての責任を負って下さるのは神だ。わたしはこの子のためにこそ神に従おう」と。だから言います「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」と。黙々とした献げ物の準備。それはこう考えます。人生の目的はそもそも何のためなのか。人生は誰が最後に担うのか。誰が負ってくれるのか。それはわたしたちの人生にも言えるでしょう。人生は最も大切な目的を神へと届ける準備期間かもしれません。
ついに山上に着きアブラハムがわが子を神へと屠ろうとする時、神の声が伝えられました。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」(12節)。神を畏れるとは神の愛に全信頼を置くことです。わが子の死の絶望の一線さえ神に委ねて信頼したアブラハムでした。
この時ついにアブラハムは長い準備の歩みに対する答えを神から与えられてこう言うのでした。「主は備えてくださる」。人間は一生をかけて最も大切な目標目的を準備する。そしてその最後の答えを下さるのは神なのだ。
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