説教 20220306 マタイによる福音書7章13~29節「本物の人生の建て方」

― 神の愛にありのまま生きる ―

 ご自分のことを「家庭料理の愛好家」と名乗った小林勝代さんはグルメブームの時代にテレビ放送された「料理の鉄人」という料理対決の番組で並み居る有名料理人の人々を向こうに回して勝ってしまわれた方です。じつはクリスチャンでした。そんな小林さんがラジオの対談番組でこんなことを言われてました。「あのねグルメ、グルメて近頃言うけど、それってただ材料を揃えることだけなのよ。これは北海道から取り寄せた鮭ですとかこれは本場秋田県の鶏のもも肉ですとか、どこどこのネギです、お酒ですって。なるほど本場の食材を持ってくれば美味しいかもしれないけど、でも忘れてるのよ。肝心の毎日食べる人のことを。これは本物の料理ですってどんなに出されても食べる人の舌はそれを求めてないかもよ」。

 イエス・キリストは神の国の喜びのおとずれを伝える神の子として山の上で人々に語り聞かせました。それは「心の貧しい人たちは幸いである」と始まり、ついに本日お読みいただきました「狭い門から入りなさい」と呼びかけるこの一ページ分の一連の教えで締めくくられるというたいへんに長い教えでした。でもそれは一般に「山上の説教」と呼ばれ、じつはただ長いというのでなく、聴く誰もがある一つの押しとどめようもない力に迫られ動かされるのを感じずにはおれない、そんな気迫のこもった教えだったのでした。

 突然と言っていいでしょう。それまでは人々を慰めるように「思い悩むな」と、諭すように「人を裁くな」と、励ますように「求めよ」と語りかけられたキリストがここで唐突に「狭い門から入れ」と言い放たれるのです。「狭い門」とはどこか入ろうとする人を拒絶するような反発を感じずにはおれません。入らせまいとするのでしょうか。ここである時主イエスが言われた言葉を思い出します。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と。それは何をしたら永遠の命が得られるかと訊ねた一人の金持ちに答えられた言葉です。らくだが針の穴なんか誰が想像しても通れるはずはありません。じつは「らくだと針の穴」の譬えはただ「それは無理だ、通れないよ」と言っているのでなく、ユダヤのあるしきたりのようなことをあらわしてると言います。昔エルサレムにらくだでやってきた商人や旅人は「針の穴」と名づけられた狭い門を通らねばなりませんでした。そのとき彼らはらくだに山程積んできた荷物を全部下ろし役人にきびしい調べを受けなければならなかったのです。つまり門を通り抜け都に入るには自分の持っているすべての荷物を下ろさねばならないということです。

 「狭い門から入りなさい」。それは持ち物をすべて下ろして身一つの自分になって神の国に入りなさいということです。だから「偽預言者を警戒しなさい」と言われるのです。要らないもの、余分なものは棄てて、地位や名誉も財産も自分の才能さえもかなぐり捨てて神の国に入りなさいと。偽預言者とは当時大手をふるって闊歩していた偽宗教家のことです。彼らは豪奢な僧服に身を包み戒めや掟や律法を駆使して民衆を見下し、吸い上げた献金や捧げもので身を肥やしていました。主イエスは彼らを狼や茨にたとえます。その身をどんなに着飾って律法を教えてもその内が貪欲凶暴な狼なら何が出てこよう。茨やあざみがブドウやイチジクを実のらせるだろうか。「ブドウやイチジク」は人々がもっとも愛した果実です。それは神を喜ぶ生き方のことです。神の言葉に出会い実をつける生き方です。自分へと多くを集めることではありません。それはなにも持たず貧しく狭い自分に帰って神の前に出ることです。自分がどれほど豊かで心広い人間であるかとは正反対のありかたです。どんな高潔で良い人間であるかどれほど欠点に満ちて愚かな人間なのかは神は問題にしないのです。ただわたしたちは神に呼び求められ、赦し励しが注がれます。そこにしか今あるわたしは立っていません。

 それゆえ神にも自分にも自分をもう偽らなくてよいこと、それが本当の生き方となります。弱さの中であろうと悩みの中であろうとわたしは神の前に喜べます。人から称賛されるようなあれやこれやの持ち物、富や地位、名誉や才能を持っているからではありません。「神の前に」裸の心を持つことが生きるということです。ソロモン王の裁判の物語があります。それは本物の母親を見つける物語です。子供のために身を引き刃の前に身を投げ出した女こそ母親でした。彼女は神に自分を見せようとしたのではなく、ただ投げ出したのです。

 最後に聖書は人々の様子をとおして主イエスの感銘深い姿を伝えます。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである」。でもこの権威とは「偉そうな」ということではありません。「偉大」とか「絶対的」という意味ではなく、例えば「著作権」のようなものです。自分が書いた内容には自分が責任を負うことです。伝来の知識、伝統的に積み上げられた学問によって神のことを教える律法学者は一言一句正しく教えるとしてもそれの権威を持ってはいません。伝えられたまま教えるだけです。そうではなく主イエスは神の言葉も律法も戒めもその著作権者のごとくみずから語られ、神の言葉のすべてをご言い改められ新たにされるのです。そしてそれこそは、神の言葉の前にあるがままに生きることを命ぜられるわたしたちの原型、手本となっているのです。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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