メッセージ「祈りも施しも隠れて」

説教20210801マタイによる福音書6章1-8

「祈りも施しも隠れて」

ー隠れたる神ー

 托鉢修道会といって、修道院の建物の中でなく、山野や町などの戸外 に出て托

鉢しながらキリストに清貧を倣い祈り服従した修道会の開始者にフランチェスコと

いう人がいます。世の中から切り離された修道院の中でなく、人々の住む世界でキ

リストの教えを実践して、世俗の中で祈りや愛の行いを実現しようとした人です。

神の愛は聖域のような修道院でなく苦しみや弱さそして罪にまみれて生きている人

々の中にこそ行われなければいけないと考えたのです。彼はこの世に生きる人々こ

とに病者や弱者を訪ね、伝説では山野の鳥や動物にさえ語りかけたといいます。で

すからフランチェスコは修道士達がするような重々しく立派な祈りはしませんでし

た。彼は托鉢をしながら頻繁に町や村を訪ね歩いていましたから何人もの友人や援

助者を持っていました。でもある時、フランチェスコがある友人の家に泊まった時

に、友人はフランチェスコが普通の修道士のように祈るところをまるで見たことが

ないため、いったいどんなふうにフランチェスコが祈るのか知りたくなりました。

そこで皆が寝静まった深夜に、そっとフランチェスコの部屋を鍵穴から覗いて伺っ

てみたのでした。すると暗い部屋に這いつくばるようなひとつの影が見えました。

フランチェスコでした。どうするのだろうと見続けていてもその影は微動だにせず

、それが長い間続いたかと思うと、突然影が声を出しました。それは絞り出すよう

にこう言いました。「父よ」と。友人は心を動かされフランチェスコの元に膝まづ

いて同じように闇の中で祈ったといいます。

 主イエスは信仰を持って生きる人々を「地の塩、世の光」と呼ばれました。そん

な人たちにここで、主はいわれます。「見てもらおうとして、人の前で善行をしな

いように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけ

ないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめ

られようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない

。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをすると

きは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につ

かせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報い

てくださる」(1節~4節)。

 偽善者たちとは当時の社会で力を持った宗教家、律法学者や祭司、ファリサイ派

です。その人達はひけらかすように人前で慈善をしたり、楽器を使って伴奏付きで

しかも人通りの多い神殿や会堂の前の往来で祈ったりしたのです。そうやって自分

がどんなに長く立派に祈ったかどんなに沢山施したかを他人に誇示しようとしまし

た。ご存知のようにこの時代の献金箱の投入口にはよく響くラッパが取り付けられ

ていて、多額の献金の投入のたびに大きく鳴り響いて周囲の人を驚かせたのでした

。主イエスはそのような人前で敬虔ぶった律法学者や金持ちのファリサイ派の偽善

を厳しく批判されました。「彼らはもう神から何も受けるものはない。彼らはすで

に偽善の報酬を得ている。すなわち人々からの大層な賞賛と評判という報酬を。何

故と言って彼らの祈りや施しは神に対してよりも彼らを賞賛してくれる人間に向け

られたものなのだから。人間たちが彼らの施しの多さや祈りの長さに驚いて褒めそ

やせばそれでもう十分であろう。しかしあなたがほんとうにしたい施しの右手は左

手に知らせるな」。6節に主は言われます。「あなたが祈るときは、奥まった自分

の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そう

すれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」これは旧約聖

書イザヤ書45章15節から来た言葉です。こうあります。「まことにあなたは御自分

を隠される神 イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる」と。

 「奥まった部屋の戸を閉めた隠れたところ」で祈りなさい。「隠れたところにお

られる父」に祈りなさい。

ここに大切な意味が秘められているように思います。これはただ窮屈で狭く暗い場

所で人知れず祈れ、また善い行いを人に知らせず黙々としなさいということだけで

しょうか。いえ!

 それはこう言われるのではないでしょうか。「隠れたところ、あなたの心のもっ

とも奥底にある誰からも知られることのない苦しみや悲しみから祈りなさい。人に

言えない苦悩、払いのけることのできない罪や弱さの中から祈りなさい」と。「苦

難の中で、わたしが叫ぶと主は答えてくださった。 陰府の底から、助けを求める

とわたしの声を聞いてくださった」と魚に呑み込まれてしまったヨナは言います(

ヨナ書2章3節)。聖書は祈りは「苦難」や「深い淵」の中から祈ることを示して

います。なぜならそこが神がおられるところだからです。あなたの密かな苦難、さ

らには自分の罪の闇の中で誰にも言えず心の扉を閉ざすようにしているあなたのす

ぐ横に神があなたの父のように耳を傾けておられるからです。主イエスはそう言わ

れるのではないでしょうか。

 ただ主イエスが言われる「隠れた」ところとはさらに次のことも示していないで

しょうか。

 神のおられる「隠れたところ」とは「わたしの隣にいる隣人の悲しみと痛み苦し

み」のことではないでしょうか。

それは隣人の苦悩と悲しみです。そこで神は言われます「わたしはここにいる。あ

なたはこの隣人の悲しみや苦しみが分かるか?」と。人は自分の深い苦しみや悲し

みを容易には表そうとしません。苦しみや悲しみ痛みが深ければ深いほど誰にも知

らせず自分の心の奥深くに隠しておくものではないでしょうか。人間は誰にも言え

ず誰からも分かってもらえない苦悩を持っています。主イエスはこの隣人の内に言

いあらわせないで隠されたその人の苦しみ痛みを見よ、神はその人の苦しみと共に

あられる、その神に目を向けて祈りなさいと言われるのです。私たちの祈るべき神

はどこにおられますか?それは苦しみ悲しむ隣人の心の中におられます。

高岡清牧師

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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