メッセージ「アブラハムの召命と移住」
説教 20210718
創世記11章31-12章9「アブラハムの召命と移住」
— 神の言葉に従って —
この聖書箇所のテーマは「人生の出発」といってよいでしょう。人が自分の人生へと出発するとき、二つの出発のしかたがあるのではないでしょ
うか。第一はみなぎり溢れる力に満たされて前途洋々と進み出る出発、第二は苦しみや痛みを乗り越えて未来に希望を託しつつ出て行く出発です。ここに登場するアブラムはその第二の「苦しみや痛みを乗り越えて」出発をした人物といえるでしょう。ではアブラムはどんな苦しみと痛みを背負い、そしてどうして新しい旅へと出発したのでしょう。
アブラムは後に主なる神の契約にあずかった時「アブラハム」と改名しますが、彼は後世のイスラエル民族すなわちユダヤ人の父祖となった人です。創世記は12章から25章まで彼を描きますが、それはアブラハムがすでに75歳だった時のことでした。ただ、創世記は12章で突然アブラハム物語をはじめるのでなく、彼以前の先祖の系図からの続きで描き始めるのです。
系図というのは、ノアの洪水物語の後、10章と11章に書かれています。分かりやすくまとめると、ノアは3人の息子を生みました。セム、ハム、ヤフェトです。10章の5節でヤフェトは海沿いの国々地中海諸国がその子孫で、ハムの子孫は6節ではメソポタミア地方でエジプト、カナン、クシュつまりバビロンの民族たち、そしてセムが30節のメシャ、セファルの地方、これは東方アラブ系の地域のようです。一旦、バベルの塔の話を挟んだのち、系図はセムに絞られ、再び11章10節から親子系列で人物が延々出てきます。ただセム、その子アルパクシャド、またその子シェラ、そしてエベル、ペレグの名前は10章の繰り返しですが、その後のレウ、セルグ、ナホル、テラ、アブラムは初登場となります。ここからアブラムの名が(後にはアブラハム)出てきます。アブラムには弟が二人いて、ナホルとハランでしたが、ハランは早く死んでおり、その子ロトの面倒をアブラムが見たようです。28節に「故郷カルデアのウル」と書かれているようにアブラムたちの出身はバビロン地方だったようです。
ただ、一族の旅が始まったのはアブラムからではなかったようです。31節で父テラは(中略)カルデアのウルを出発し、カナン地方に向かった、とありますように、旅は父テラに始まり、しかも目的地はカナンそのものでした。父テラは「肥沃な三日月地帯」として知られているこの沃地帯に沿って人口の多いウルを去って新天地として夢見たカナンに移住を考えたのかもしれません。しかしこの旅は頓挫していたと考えざるをえません。「彼らはハランまで来ると、そこにとどまった。テラは二百五年の生涯を終えて、ハランで死んだ」のでした。
アブラムの父テラはカナンへの移住を決意し旅を始めたのでしたが、無念にもそれはテラの死によって中途で終わってしまいました。推測するわけですが、アブラムはこの父の死によって旅を終わらせていたと思われます。「とどまり」という言葉にそんなアブラハムの断念と終息の思いが読み取れると思います。あるいはもうアブラムには前進する気力がなかった。
死んだ父を痛む思いからか父を忘れられない思いからか、アブラムは旅の途中のハランで永住化しつつありました。そしてそこを自らの終息の地とも考えたかもしれません。あるいは亡き父の思慕に囚われていたとも言えなくはないと考えます。もう動けなかったのです。
そこにひとつの「声」がありました。アブラムが今以上を望まずそのまま人生が暮れようとするときそこにひとつの「呼びかけ」がありました。それは主なる神が呼びかける言葉でした。
「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」。父の家を離れよ、この「離れよ」の言葉に、アブラムに対する主なる神の強い意志を感ぜずにおれません。カルデアのウルすなわちバビロンという元々の故郷を棄ててまで父テラの一族は安住の地を求めて肥沃な三日月地帯の真ん中に当たるハラン(今日のシリア)までやってきました。しかしリーダーたる父の死によって旅は力を失っていました。「もういいだろう」そんな思いがともするとアブラムの脳裏をよぎっていたかもしれません。その時神はこの言葉を彼にかけられたのでした。「父の家を離れよ」、それは亡き父から離れられないアブラムに対する神からの挑戦でした。ただしかしこの神の挑戦の呼びかけはアブラムにとって、ただ過去を忘れさせるものでなく、それ以上にアブラムの人生の中でまったく新しい局面をもたらそうとするものでした。それは「わたしが示す地に行きなさい」というテーマです。決して父テラの意志を引き継ぎなさいとかあるいは今度は父の代わりに自分がリーダーとなって旅しなさいとかの命令ではありません。そのような旅ではなく永遠の神につながる旅です。わたしが示す地に行け!アブラムよ、あなたに必要なことは地上の平安を求める旅ではない、永遠の神であるわたしと共に生きる地へと旅することだ。この「示す」という言葉は「見させる」とか「ヴィジョンを持たせる」という意味です。現在を超えた幻を抱かせるとか夢を持たせる、という胸が膨らむ言葉です。
そのしるしに神は今までの彼らの地上の旅の目的とは全く違った希望と輝きを持った言葉をアブラムに語りかけられます。「(なぜなら)わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。あなたを大いなる国民とし、祝福し名を高める、すべての人々の祝福の源としよう。「祝福」とはある旧約学者によると「福音」と同じ意味だと言われます。「福音」は「喜びのおとずれ」です。すなわちアブラムは全ての人々に喜びを与える人間となるというメッセージでした。
さあアブラムは立ち上がりました。「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」のでした。彼を立ち上がらせたのは何ですか。行き先がわかったからでも目標がはっきりしたからでもありません。一族の?栄のためでも、自分の人生の全うのためでもない。ただ神が彼を祝福し呼びかけられたからでした。「主の言葉に従って」。この言葉がアブラムの出発点です。行き先を知らずして主なる神の「行け」との呼びかけに応答したのでした。神のみ心に信頼し、神が与えてくださる祝福の幻を見つつ仰ぎつつ従いゆく。それはアブラムのみならず神を信じるわたしたちの人生の旅であります。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11章8節)。
高岡清牧師
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