メッセージ「敵を愛しなさい」

メッセージ「敵を愛しなさい」(2021年7月4日教会礼拝説教より) 高岡 清牧師

 このマタイによる福音書の5章からは「山上の教え」と言われているように、人々に語りかける主イエスの教えです。主はこれらの人々を「心の貧しい人」と語りかけ「地の塩、世の光」と呼ばれました。主の言葉はわたしたちが日々をどのように生きるべきか、何をなすべきかを教えます。そのため主イエスは17節で「わたしが来たのは律法を完成するため」と言われ、昔から伝わる律法と向かい合って語りかけられます。教えごとに「あなたがたの聞いているとおり」とか「しかしわたしは言っておく」と言われて、人々を動かした古い掟を超えてまったく新しい生き方を示されるのです。それは具体的で「殺すな」「腹を立てるな」「姦淫するな」「妻を離縁するな」などと掟や律法の教えに真剣に向かい合っておられるです。

 本日、主イエスは「誓ってはならない」「復讐してはならない」そしてついに「敵を愛しなさい」とわたしたちが人々と共にどう生きるべきかを力強く投げかけるように語られます。この「誓うな、復讐するな、敵を愛せよ」の言葉は一つの教えとしてみることができるでしょう。一方で「誓う」という顔を堂々と人々に向けてする行いを、また他方で「復讐する」という顔を人々から隠して心密かに燃やす「敵意」を、ついに「敵を愛せよ」の教えによってのり越え、愛することの尊さ、また愛することから与えられる救いをおしえられるのです。

 「「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」。

なんと答えたらよいでしょう。敵を愛するなんて、どうしてわたしたちにできるでしょうか。いえ!主イエスが命じられる「敵を愛しなさい」の言葉こそはわたしたちへの限りない救いの宣言にほかなりません。それは「あなたがたは黙々と愛していればいい」と有無を言わせずに一方的にわたしたちに敵を愛することを迫る要求ではありません。「敵を愛しなさい」。この語りかけは深くわたしたちの罪に響きわたります。それは「敵どころかどんな身近な隣人をさえ心底から愛することができない」隣人への無関心さや冷ややかさの罪にひしがれるわたしたちに深く語りかけてくださる主イエス・キリストの救いに満ちた言葉にほかならないのです。

 皆さん、「誓うな」「復讐するな」と言われる時、主イエスが何に立ち向かい、何を打ち破ろうとしておられるか想像できますか。人間が神の玉座である天をさして誓うとき、いえ自分の頭をさしてであればなおさらのこと、肩ひじ張ったような嘘っぽく空虚な正義を感じませんか。「目には目だから、歯には歯だから」と殴られたら殴り返す、嫌われたら嫌い返す、傷つけられたら傷つき返す、けれどそんなことをするとき自分がとても卑しい人間になったような空しい気持ちを感じませんか。

 たしかに人々との絆で社会での繋がりあいの中で「誓う」ことも「目には目を」を定めることも有用で欠かすことはできません。だが主イエスはその裏に隠れたわたしたち人間の嘘でも自己を正当化せねばならない「悲しいありよう」を見つめておられます。「ほんとうのあなたがた人間のあり方生き方はそんなものか?」と。

 ほんらい「隣人を愛し、敵を憎め」の律法は自国民を愛し、異邦人を敵視せよという内容でした。通常、律法内で「隣人」は同胞や兄弟、ユダヤ人のことでした。それは律法が整備された時代が、ユダヤがバビロン捕囚から立ち直って、国家再建に邁進した時だったからでした。そんな時代には周りから攻め込む敵には常に警戒し敵愾心を燃やさねばならなかった。そして憎まねばならなかった。

 「でもそれがあなたの生き方か」と主は言われるのです。「そんなにしてまで自己の正当性を押しとおし、誓える、復讐できる」というのか。そんなあなたがたにはどんな救いがあるのか?あなたがたは疲れてしまわないか?拠り所なく右往左往するあなたがたにたどり着く真実はあるのか?

 律法だからと、自分の手で復讐し、敵を憎もうとすればするほど、あなたは自分に重荷を負い込んでいるのでは?憎んで人を傷つけようとすることは、自分を傷づけていることにほかならないのだ。考えてみよう、誓おうする時や復讐しようとする時、それを誰かに頼むだろうか?憎むことは自分ひとりでやろうとするだろう。まるですべての正しさが自分ひとりにあるとばかり「復讐する、憎んでいる」と言う。「憎む」ことを「あなたやってください」などとは言えません。憎しみは自分の独占物です。まるで「我にこそ正義あり」とばかりに。憎しみはまるで神の存在のように正しさを独占することです。でも憎しみも復讐も自分ひとりに終わりのない憎悪や復讐の重荷をすべて背負い込むのです。そして背負い込んだ憎しみはわたしたちを檻の中へと追い込んでしまいます。誰にも救い出してもらえない罪の孤独へ。

 そんな敵への憎しみのなかで自我の絶対性にしがみついているわたしたちに主はこう言われます。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。なたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」

それはこう言います。あなたがたは、もうひとりではない。あなたがたは天の父の子なのだ。あなたがたには神が父となっておられるのだ、と。

 ローマの信徒への手紙12章19節に「する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」とパウロが書いています。あなたの悲しみあなたの怒りのやりきれなさは神であり父であるわたしが一番よく知っている、と言われます。

 ここに「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」の言葉がわたしたちへの「救い」となる保証があります。わたしたちはもう誰をも憎む必要がない。飼い主のない孤独のさまよう羊ではなく、キリストの救いによってキリストと共に「天の父の子」すなわち「神から愛された子」、神から失われることのない者となっているのです。

 この「敵を愛しなさい」は「あなたは敵を愛するだろう」という信頼の言葉です。「あなたはかならず愛するようになるだろう」と主イエスはわたしたちを信頼されます。この信頼がわたしたちを救います。主イエスの信頼によって愛さずにいられない者へと変えられるのです。「敵を愛しなさい、あなたは必ず敵を愛するだろう」。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

ようこそ、田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)のホームページへ。