メッセージ「バベルの塔」

メッセージ「腹を立ててはならない」(2021年6月20日教会礼拝説教より) 高岡 清牧師

創世記11章1-9「バベルの塔」

 創世記は最初に創造されたアダムとエバ、その子カインとアベルというように、ある人間を登場させてはそこに特定のエピソードを描いて主である神の物語を展開します。これまでにもアダムとエバで堕罪、カインとアベルで憎悪と殺人、ノアでは人間を罪から神との約束へと逃れさせる洪水などなどが語られました。ただ特定の名をもった人間ではなく不特定の人々たちが現れてその行いに対して神が対処をされる逸話のような話もありました。その一つが洪水の原因となった、神的子孫であるネフィリムの出現以後の人間の悪が増大したという状況です。そしてもう一つ同じく特定の名は出ずたんに「東の方から移動してきた人々」が行った「天まで届く塔のある町」の建設とその顛末の物語です。

洪水物語でもそうでしたように、この塔の物語は古代のメソポタミアの考古学的研究にも関連させられて語られることがよくあります。この研究ではバベルの塔のモデルとなる遺跡は現在のイラクにかすかに残っているといわれます。古代バビロニア王国の中心部があったチグリス・ユーフラテス川の下流域には「ジグラット」(意味:高台)と呼ばれるいくつかの塔があったと言われます。その一つである「エ・テメン・アン・キ」(天地の基)と呼ばれる塔がバベルの塔のことだろうと言われています。この塔は旧約聖書ではユダヤを制圧してバビロン捕囚を行った(新)バビロニア王国のネブカドネザル2世によって完成されたといわれます。それは宗教祭儀のための建物で高さ91メートルで7階に分かれ各階が星にちなんで下から土星、木星、火星、太陽、金星、水星と積み上がり、最上階7階目には月を表す至聖所があり月神礼拝が行われていたといいます。

じつはこのバベルの塔物語が書かれた時代はすでにバビロニア王国はペルシア王キュロスによって滅ぼされ、ユダヤ民族はバビロン捕囚から解放され新しい民族形成に力を入れていた時でした。ユダヤの人々はかつて自分たちを滅ぼしたバビロニア王国の強大さと傲慢そして滅亡の成り行きを「バベルの塔の町建設」の顛末として描いたと言えるのです。ただ、しばしばこの物語は人類の言葉がもともとは一つであったが高慢な人間に対する神の裁きによってバラバラにされてしまったと教えるたんなる逸話のように思われがちです。でもそれだけではなくではなくこの塔建設の断念や言語の分裂混乱に至る記述の目的はたんなる否定的結果で終わるのでなく、むしろもっと本質的で有意味な積極性を込められていると思われるのです。

「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(1節)と書き始めます。しかしこれはこの物語を書いた記者が古代世界はみな同一言語だったと学問的に説明しようとしているわけではありません。その証拠に10章の5節やこの直前の31節には「それぞれの地に、その言語、氏族、民族に従って」と書いています。「世界同一言語」とは「東の方から」来た人々の中央集権的文明の専制的な強大さと他国を制圧吸収してしまう横暴を表そうとした表現です。彼らの住み着いた「シンアル」とはバビロニア王国の中心地であったバビロンやウル一帯のことで創世記記者は東からの人々が誰でどんな民族かもう念頭に置いていますし、ここで言わずもがなのバビロニア王国を暗示しようとしているのです。

3節からの記述を見ると、自分たちの高度な技術や文明を誇示しようとしたバビロニア民族の在り様を驚嘆しつつもやや皮肉って描いてはいないでしょうか。なるほど不ぞろいの石でなく加工しやすい焼き煉瓦そして水性の漆喰つまりモルタルから雨に強い油性のアスファルトへの転換という目覚ましい技術革新に目を奪われるものの、その目的はバビロニア王国が天的権威を傘に着て「有名」になる、つまり他のどの民族に対しても覇権的支配を持ち、いつまでも「散らされることのないように」すなわち「滅んで散りじりバラバラにならないように」することだったのだと。なにかことさらお伽話のように描いていながらじつに人間の文明や国家の愚かしい本質を率直に表しています。それだけでなく文明や国家が装う幻想に足並みをそろえていないと自分個人が消えてしまいそうな恐怖におびえる人間の不安が書かれているようにも思えます。

「散らされる」という言葉は聖書で重要な意味を持っています。それは拠り所である主なる神を失う不安な生き方のことで人々のもっとも悲惨なあり方と考えられます。ユダヤ人にとってはバビロン捕囚のように国を失くす状態でした。「わたしたちユダの者、エルサレムの住民、すなわち、あなたに背いた罪のために全世界に散らされて、遠くにまた近くに住むイスラエルの民すべて」とダニエルは神に祈ります(ダニエル書9章7節)。また神から見捨てられることです。「東風のように、わたしは彼らを敵の前に散らす。災いの日に わたしは彼らに背を向け、顔を向けない。」(エレミヤ書18章17節)

主イエスは十字架にかかられるときに弟子たちが主を見捨てて逃げ去ることを「あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている」(ヨハネによる福音書16章32節)と言われました。主イエスを失うことです。それは飼い主を失くした羊のありかたです。

この「散らされることのないように」のため人間は全精力を注いで天まで届く強大な文明や国家をつくろうとします。そしてその大きな力となるのが同じ「一つの言葉」だったのです。日本は日中戦争時中国大陸諸国に日本語教育をつうじて日本文化を強制し植民地化しました。世界史を見てもどんなに過去の覇権国家も自国の言葉を強制することで他民族を支配しました。アフリカでフランス語が通じ、南米でスペイン語が通じ、アジアでも英語が話されるのは何故でしょう。

神はこれを異常なことだと見られました。「彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう」(11章6〜7節)。

わたしたちは他者と共存しあう中で、よく「団結」とか「結束」とか「一致」というスローガンを掲げて目標を達成しようとします。そんな社会では利益追求を目標にする会社においても学校など学力追求の場においても営業売上や成績向上が金科玉条となり個人が隷属的なものとされてしまいます。端的な例は、ある障害者施設でその助け手であるはずの人間が、障害者の存在は社会の不幸であると施設の障害者を殺害して、しかも殺害の正当性を当時の総理大臣に訴えようとまでしてアピール文を書いた事件です。またある国会議員はLGBT(性の多様性をもつ)の人を「子どもを産めない」から社会的生産力を持たない存在だと公言してはばかりませんでした。

何を企てても、妨げることはできないという記述から思い出します。一つの言葉、その言葉による統制によって圧政が始まりそして戦争さえ正当化されます。神はこの一つの言葉から来る暴虐よりむしろ「混乱」を選ばれました。わたしはこれを「互いに入り乱れた混合」と考えます。一つの言葉の主義主張の専横ではなく数限りない異なる者どうしの利害を越えた共在のあり方が暗示されています。

神は洪水の後の約束を守り、ここでは一つの言葉によって天にまで届く塔を建てた人々を滅ぼさず、建設をやめさせられただけでした。彼らは全地に散らされたといいます。それは全地に住む別の言葉を語る人間たちとの出会いに送り出されたと言って良いでしょう。

わたしはここで聖霊降臨の弟子たちを思い起こします。使徒言行録はこう書きます。「すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒言行録2章4節)。そして「さて、散って行った人々は、福音を告げ知らせながら巡り歩いた」(使徒言行録8章4節)。

キリストの福音は誰とも語り合い、どこへも散って行き他者と出会います。福音は言葉を押しつけず、隣人の言葉を聞き受け入れます。福音は塔を造ることを目的とせず、悩み苦しむ人のもとにあることを喜びます。

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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