メッセージ「地の塩、世の光」

メッセージ「地の塩、世の光」(2021年5月2日教会礼拝説教より)

 かつてグルメ料理が流行した時代『料理の鉄人』というテレビ番組で、並みいる有名料理人を向こうにまわし家庭料理の肉ジャガで勝利された方がいました。それは小林カツ代さんという主婦料理家でした。小林カツ代さんはクリスチャンの方なんですがあるトーク番組でこんなことを言っておられました、「あのね、美味しさって食べ物に味付けすることじゃないのね。材料が持ってる良さを引き出してあげることなのよ。肉ジャガって、ジャガイモとお肉が手ェつないで協力し合う料理なのよ。わたしはそのお手伝いするだけなの」と。その小林さんがだいじにされてたのが塩の使い方だったそうです。塩といえばこんにちわたしたちが使っている塩は「食卓塩」です。真っ白でサラサラしており、舐めるとジワっとショッぱく、自然に唾液が出てくるもので日常の料理には欠かせません。でも最近は海塩とか岩塩とかが注目されているようです。それは食卓塩がその80パーセントが塩化ナトリウムで比較的明瞭な味であるのにたいし海塩や岩塩は様ざまなミネラルや雑味を含んでいていわく言いがたい風味を出すからと言うことです。

 このマタイによる福音書5章13節以下では主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われ塩が世の人々にとって有益な役割を持っており塩のように世にたいして有用であることを語られます。そして「だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と、塩がその有用性を失ったらどんな末路を辿ることになるのかいささか厳しい言葉で語られます。塩の大切さは主イエスの言葉ばかりでなく旧約聖書の中にも多く語られています。ヨブ記でこう言われてます。「味のない物を塩もつけずに食べられようか。玉子の白身に味があろうか」(ヨブ記6章6節)。現代のわたしたち同様、ユダヤでも塩を大切に扱い、食事に必要な調味料としてきました。それだけでなく旧約聖書では塩は神聖さを帯び「神のメッセンジャー・神のみ心を伝える者」という意味を持ちます。士師記9章45節でアビメレクという指導者は戦い取った土地に塩をまいて神に捧げました。レビ記2章13節には「穀物の献げ物にはすべて塩をかける。あなたの神との契約の塩を献げ物から絶やすな。献げ物にはすべて塩をかけてささげよ」と教えます。「契約の塩」という言葉には神が人に向けられた愛の約束の変わりなさの意味が込められてます。

 でもここで主イエスが挙げておられる塩がじっさいにどんな塩なのかを少し考えてみたいと思います。「塩味」と言っておられるように味わうもの、食用また料理用でしょう。でも主イエスの時代の塩を調べますと、どうもそれは単に食卓塩のように「しょっぱい」だけのものではなかったようです。主イエスの時代もこんにちも「死海」すなわち「塩の海」の近くに大きな岩塩の地帯があってそこから塩を産出していたそうです。その岩塩の成分は40パーセントが塩化マグネシウム、20パーセントが塩化カリウム、その他塩化カルシウム、塩化ナトリウムだということです。そしてこの岩塩の味は単純に「しょっぱい」というより非常に苦味が強いと言います。ですからこの当時での塩の役割を見ますと、たんなる「調理用」の役目を越えて「防腐剤」と「保存用」また「死体処理」などのためでその生活的重要性から経済的に「交易の媒体」「貨幣の土台」でした。有名な話ですが、古代のローマ帝国でも兵士たちの報酬支払いには貨幣でなく塩が使われていました。それは塩の価値への信頼が変わらなかったからでした。皇帝の顔を刻んだ貨幣は皇帝が変わるごとに価値が上下したり無くなったり人々から信用を得られません。主イエスが「神のものは神に、皇帝のものは皇帝に」と言われた真意はここにあったと言えるでしょう。権力者の像を刻んだ貨幣は幻であり、仮想現実の信頼しかないと。貨幣が交換できるものはモノや財産でしょう。でも愛や希望や信仰は買えません。ローマの兵士たちでさえ塩の変わらぬ価値を信用していました。「地の塩」です。「天上の塩」でも「」でもありません。低き地の人々の生活にまで行きわたって「地」にあってこそ「塩」の働きが生きるのです。

 ですから主イエスは「あなたがたは地の塩である」と言われました。それは主イエスがこう呼ばれた人たち以外ではありませんでした。「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え乾く人」・・・。塩が人々に食べ物として料理に味をつけ喜びを与える役目を持っているようにこの世に味わいを与えるのは心の貧しさ、悲しさ、柔和、義に飢え乾く苦しみを負った者たちだと主イエスは言われるのです。それは「人が痛む心の貧しさや悲しみや義への飢え渇き」こそ神の心の中で、愛の中で、慈しみの中で愛され救われて隣人を生かす地の塩となるということではないでしょうか。「心の貧しい人」「悲しむ人」「柔和な人」「義に飢え乾く人」がもしも神の愛から離れたら、それは「失われた羊」となり、まさに「もはや何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」でしょう。この世の人々を生かすのは神に愛され、生かされる弱き人に他なりません。強い人が世を作るのではありません。弱い人こそがこの地の塩となるのです。なぜそのような「弱い人」「悲しむ人」が「地の塩」となるか。それは人間が「弱さ」「悲しみ」「苦しみ」の中にあってこそ神の愛もキリストの死も知るからです。「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(コリントの信徒への手紙二12章9節)。神によってしか生きられない人こそ「地の塩」と呼ばれます。

(高岡清牧師)

田原吉胡教会(田原吉胡伝道所)

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