メッセージ「祝福と契約ー神の愛からの再出発」
メッセージ「祝福と契約」ー神の愛からの再出発(2021年4月18日教会礼拝説教より)
わたしたちは自分を造られた創造者の愛を知ることで前へと進むことができます。自分の創造者である神が与える祝福の約束によってわたしたちは滅びを越えて新しくされる。これが「ノアの洪水物語」が描くところではないでしょうか。こんにちわたしたちが様々な災害によって苦しみを受けているのと同じようにいやそれ以上に古代やさらに神話的な時代にも人間は自然災害に翻弄され苦しめられていたでしょう。ことに世界の文明の発達地といわれるところは土地が肥沃である反面その因をなす降雨の過多や大河の反乱によって定期的にか突発的にか洪水の災害にあっていました。そうした破壊的な災害の度に人々はそれを乗り越える希望と勇気を持とうと願ったに違いありません。このノアの洪水物語も旧約聖書に伝えられたひとつの「復興」の物語と言えるでしょう。そしてこの復興は神から人間に向けられた愛の祝福の契約から出発し、神の愛により再び新たな創造が行われる「世界の復活」と呼んでもよいのです。
この「洪水物語」を読んでいくつかの描写の特徴が浮かび上がってきます。その第一は物語がノアも含めた人間たちよりもあくまで「神の心情と行動」を中心に扱っていることです。冒頭に描かれるネフィリムにまつわる記事は異教的な雰囲気ながらかつて神と人間の良い関係があったことをほのめかしているといえます。しかしこれは比較的短く済まされた後、いまわしい人間の堕落とそれにたいする神の悲嘆ともいえる深刻な後悔の心情が数度にわたって繰り返し書かれます。ただここで神の心情は「悲しみ」に近いものでけっして「怒り」の類ではないと言えます。神は自分が創造した人間が堕落してしまったことがまるで「自分の過ち」であるかのように悲しみ悔いているのです。「怒り」が描かれていないことに気がつきます。よく洪水物語を最後の審判に近づけて解釈する考えもあります。ただ最後の審判は神の創造の時間の中ではまさにその最後に「予定」された出来事であり、自分の「失敗した創造」の清算ではありません。最後の審判にともなうのは人間に悔い改めや悔悟を求める「警告」と「神の怒り」ですが、この「洪水物語」の描き方の特徴は堕落した人間に向けての警告はなく、悔悟も求めません。むしろ神が自分の過ちに気づいてどうしようもなく「御破算」するようにノア以外のすべての人間を有無を言わさず清算してしまうという点に神の自責の厳しさを感じます。とはいえ神の心情は「怒り」ではなく人間への愛であり慈しみであるゆえに自責的な後悔として表わされます。
それゆえ第二に「洪水」は「神の自己否定」と考えられます。神は後悔ゆえ深く痛み苦しみつつ堕落した人間を滅ぼされます。神的なネフィリムさえいて人間と深いかかわりを保っていたはずのご自分の被造物世界を自分の手で滅ぼさなくてはならない。ご自身の慈しみ溢れる分身とさえ言える人間世界の抹消です。11節の「大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」は神のみ心の深奥が張り裂けるように現れ人を見つめる天の窓の瞳から溢れる涙のように雨が降り注いだのでした。世界は神の悲しみの涙にのみ込まれその底に沈まざるをえなかったのです。しかしこの描写でもっとも目が向けられているのは人間の死や滅びではなく四十日四十夜降り注ぎ百五十日間地上を覆った雨と水です。この雨と水こそが死を象徴し表してはいないでしょうか。では誰の死を❓それは「神の死」といえないでしょうか。滅ぼされる人間より滅ぼす神が「死」を悲しみ痛んで背負っているのです。神が滅ぼしてしまいたいと思われたのは人間よりもご自身ではないでしょうか。なぜわたしはこのような世界と人間を創造してしまったのか。わたしはなんということをしてしまったのか。神はご自分を後悔されご自分を否定されたのです。それゆえ洪水は神ご自身の自己否定、神ご自身の死の描写と思うのです。ご自分の手になる愛する人間をすべて否定し消滅させねばならない苦悩と悲しみ。それこそがご自身の神であることの否定だったのです。
しかし滅び死すべきは人間を創造されたご自身であったとはいえたったひとつ残したいものがありました。それが人間への「愛」であり人間との交わりでした。これが注目すべき第三の点です。神ご自身の造られた世界は滅びても人間への「愛」は揺るがせない。そのしるしこそ「ノアの箱舟」でした。人間と世界がすべて息絶える。神のそれまでの創造が消滅し葬られる。しかし生きつづける人間が神の箱舟にいる。こう言えます。神はご自分を滅ぼして人間ノアを生かした。洪水の後、最初になされたのは礼拝でした。それは神と人間ノアとの間の和解であり交わりの復活の証明です。そして神はこの和解と復活の中で誓われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼いときから悪いのだ。わたしは、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも 寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない」(8章21節)。再び創造が始まります。しかしまったく新しく。「産めよ、増えよ、地に満ちよ。地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる」(9章1節)。ノアの洪水物語のテーマは「再創造」です。しかしそれは最初の創造と違い、人間たちと動物たちへの神からの契約をともなう創造です。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない」(9章9ー11節)。洪水は復活へと続きます。
さて創世記は神の契約によってなされる新しい創造のために「しるし」が与えられたと書きます。それは「虹」という具体的で鮮烈な事物で表されます。「わたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。わたしが地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、わたしは、わたしとあなたたちならびにすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(9章12ー15節)。人間を愛してもはや滅ぼさないという神の契約のしるしの「虹」。虹は七つの鮮やかな色でありまた「光」です。
そのように心に思い描く時、眼に浮かぶのはキリストの「血」です。「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」(コリントの信徒への手紙一11章25節)。主イエスの命である血潮は十字架の上から地上へと流れ落ちました。この「虹」も神より血へと注がれる命のしるしではないでしょうか。洪水こそは神自身の受難と考えたいと思います。箱舟はこの神の受難の上を曳航される人間そして教会の姿です。そして契約のしるしの「虹」とは天の神からわたしたちに与えられる新しい霊の命です。
(高岡清牧師)
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