メッセージ「私をあがなうキリスト」
メッセージ「私をあがなうキリスト」(2021年3月21日教会礼拝説教より)
新約聖書 ヨハネによる福音書19章17~30節
ー メシアの渇きは潤す ー
「渇く」。この一語が主イエスの最後の言葉でした。そしてこの言葉にこそ12章以下ヨハネによる福音書の半分を占めるキリストの受難の流れがすべて行き着いたのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」とヨハネによる福音書は始めました。しかし今や神の子イエス・キリストの「言」は渇くのです。
ピラトのもとで十字架刑の宣告を受けた主イエスはいよいよゴルゴタ、されこうべの場所すなわち死地へと向かわれました。ただここで「おや?」と思うのは、ピラトが主イエスを「彼ら」に引き渡したと書かれていることです。主イエスに十字架を負わせゴルゴタまで連れ回したのは他の福音書ではローマの兵卒ではなかったでしょうか。でもヨハネによる福音書は「彼らはイエスを引き取った」と書きます。ではこの「彼ら」とは誰か?と、見るとそれは前段の「彼ら」に連なり、それは「祭司長」そして「殺せ、殺せ、十字架につけろ」(15節)と叫んだ「彼ら」に行き着くではありませんか。そう、主を十字架へと引き連れたのは、ヨハネによる福音書によればローマ兵ではなくユダヤの祭司長たちだったと考えられるのです。
これを思うと、主イエスの受難の背後には旧約聖書の言葉や理念が多く潜められていると思わざるをえないのです。つまりヨハネ福音書の受難描写のひとつひとつが旧約聖書につながるのです。「ゴルゴタ」すなわち「されこうべの場所」は預言者エゼキエルが導かれた「枯れた骨の谷」(エゼキエル書37章)の光景を思い浮かばせます。
そして二人の囚人がイエスと共にその左右にはりつけられました。それもまたイザヤ書53章の預言の言葉「彼は戦利品としておびただしい人をうける。彼が自らをなげ打ち、死んで罪人のひとりに数えられたからだ」(12節)と描かれる傷ついた勝利者の姿に重なります。まさにそれを裏付けるようにピラトの書いた罪状書きがこうあります。「ユダヤ人の王」と。二人の配下を引き連れた王!
兵士たちによるイエスの服のぶんどり合い(19章23節以下)は詩編22編19節の光景そのもので、じじつヨハネによる福音書は「・・という聖書の言葉が実現するためであった」とまで書きます。この「聖書の言葉が実現」という表現は他の福音書と同様このヨハネによる福音書でも何箇所か出てきます。最後の晩餐場面に描かれるイスカリオテのユダの裏切りさえも「わたしのパンをたべている者がわたしに逆らった」という詩編41編の実現とされます。
そして旧約聖書の言葉の実現はついに主イエスのあの言葉「渇く」にたどり着くのです。「渇き」は荒野と砂漠の地方では「死」につながります。それもただの死ではなく神の裁きからくる呪いと怒りにつつまれた死です。預言者アモスは言います、「見よ、その日が来ればと主なる神は言われる。わたしは大地に飢えを送る。それはパンに飢えることでもなく水に渇くことでもなく、主の言葉を聞くことのできぬ飢えと渇きだ」(8章11節)と。神に背いた者には肉体的に裁きを受けることよりも心に神の言葉が閉ざされてしまう精神的な渇きこそが下されるのです。「渇き」とは神の裁きです。
「この後、イエスはすべてのことが今や成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして聖書の言葉が実現した」(28節)。ではそこに何が実現したというのでしょう。それこそ聖書をつうじてて神が人間に下す裁きでした。神の義の実現に他なりません。主イエスの最後の言葉「渇く」とはイエスに下された神の義の裁きをあらわす言葉です。
その時イエスは全くの「罪人」とされました。メシアすなわち神の子が永遠に罪を宣告され断たれのです。それは完璧に人間の姿でした。わたしたち罪ある人間の姿を映し出していました。
しかし主イエスはこう言われてはいなかったでしょうか、「渇いている人はだれでもわたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(ヨハネによる福音書7章37節)。ほんらい渇くことのない命の水、その源こそ神の子イエスではなかったでしょうか。しかし今やその神の子が十字架の上で渇くと言われる。これこそが主イエスの受難だったのです。
わたしたちは十字架上のイエスの言葉として「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイによる福音書27章46節)を思い浮かべます。しかしヨハネによる福音書はこれをイエスの側から描きます。「渇く」と。
「隣人を愛し、敵を憎め」という旧約においてさえ、箴言25章21節は「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲せよ」と言います。それほどに砂漠地帯での渇きは「死」を意味します。それも、どこにも救ってくれる相手を見出せず、誰からも言葉をかけてもらえず、かといって誰のせいにもできない孤独な絶望状況での「渇き」でしょう。しかしこれはけっして遠い小説的な状況ではなく、わたしたちの日々の生活の現実に生じるのです。
どんなに声を枯らして叫んでも聞いてもらえず、言葉をつくしても理解されず、手を差し伸べても掴んでもらえない。主イエスはこの孤独を知り絶望を負われました。直前の25節で十字架の上から母マリアと弟子の絆を結ばれた主イエスが今や「渇く」人となりました。ここにイエス自身が、あの山上の説教で語られた「貧しい人」や「悲しむ人」また「義に飢え渇く人」となっておられる姿を見ざるをえません。
十字架にはあなたの渇きを「渇く」メシアがおられます。もしあなたが「自分独りがなぜ孤独の十字架に?」と苦しむ時、その十字架を主イエスも共に負っておられることを見つめてください。
(高岡清牧師)
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